分子神経科学の分野では、細胞や分子に着目して、脳の未知なる領域への探求と、医療の未来を拓く可能性に焦点を当てた研究が進行中です。
この記事では、脳の機能に重要なタンパク質であるBDNF(brain-derived neurotrophic factor)に関する最新の研究に迫るため、高崎健康福祉大学の福地教授に独自インタビューを行いました。
BDNFがもたらす革新的な医療への期待について、詳しくご紹介します。
高崎健康福祉大学薬学部
福地守(ふくち まもる)教授
1978年茨城県生まれ。
富山医科薬科大学薬学部を卒業後、2006年3月に富山医科薬科大学大学院薬学研究科博士後期課程を修了、博士(薬学)を取得。
富山大学大学院医学薬学研究部(薬学)助手・助教、高崎健康福祉大学薬学部准教授を経て、2020年4月より現職。
卒業研究をきっかけに研究者の道に進む
TLG GROUP編集部:まず最初に、福地様のご経歴や現在の研究を始めたきっかけについて、簡単にお聞きできますでしょうか。
福地教授:私は地元の高校卒業後、富山医科薬科大学、2005年に統合されたため現在は富山大学となっていますが、当時の富山医科薬科大学の薬学部に進学して薬剤師免許を取得し、薬剤師になろうと思っていました。
薬学部では、当時は4年生になると卒業研究を行いましたが、医歯薬系の大学で卒業研究がカリキュラムにあるのは多分薬学部だけです。この卒業研究に従事したことがきっかけで、研究の面白さに気づき、大学院に進学して研究生活が始まったという感じです。
大学卒業と同時に当初の目的である薬剤師免許は取得したのですが、その後の過程で薬剤師になる夢は忘れてしまいました。色々とタイミングが良かったこともあり、大学院修了後に大学教員として採用され、現在に至っています。
TLG GROUP編集部:研究に没頭されていたのですね。具体的にはどのようなきっかけで現在の研究テーマである「BDNF」という分子に興味を持たれたのでしょうか。
福地教授:卒業研究を始めた時に所属していた研究室でBDNF(brain-derived neurotrophic factor、脳由来神経栄養因子)という分子に関する研究が行われていたのがきっかけです。また後で少しお話ししますが、このBDNFはうつ病やアルツハイマー病など、近年患者数の増加が問題視されている神経、精神疾患にも関連します。
このBDNFの研究が、こういった疾患の原因や治療戦略の開発につながる可能性があると考え、研究を始めました。
神経分野におけるBDNFの重要性と生成メカニズム
TLG GROUP編集部:ありがとうございます。「BDNF」という分子について、詳しくお話を伺えますでしょうか。
福地教授:このBDNFというのはタンパク質です。神経細胞の生存を維持する作用を持っている分子として、最初はブタの脳から発見されました。もちろん、ヒトを含む動物でもBDNFは作られます。
神経細胞の生存や、脳内での情報のやり取りのための神経ネットワーク形成にはBDNFが重要です。動物実験からも、BDNFが記憶や学習に関与することが分かってきました。
TLG GROUP編集部:なるほど、神経科学の分野においてBDNFは重要な発見なのですね。また、このBDNFはどのようにして生成されるのでしょうか。
福地教授:BDNFは、主に脳で生成されます。実際には、他の臓器、例えば心臓や肝臓、腎臓といった臓器でもBDNFは作られますが、脳、特に海馬や大脳皮質といった脳の領域ではBDNFが多く生成されます。
また、外部からの情報によって神経細胞が活性化すると、BDNFタンパク質の情報を暗号化している遺伝子、DNAからBDNFの情報が翻訳され、BDNFタンパク質が生成します。つまり、外部からの情報の入力に依存してBDNFの生成は活性化されます。
TLG GROUP編集部:ありがとうございます。BDNFの量が多いと、うつ病などの病気が少ないということでしょうか。
福地教授:現時点では明確ではありませんが、BDNFの量がうつ病やアルツハイマー病の患者さんで低下しているという報告は多くあります。
マウスの脳が光る?!ホタルの光を利用した実験とは
TLG GROUP編集部:福地様が実施された「ホタルの光を利用した実験」について、具体的な実験内容や研究のきっかけなどを教えていただけますか。
福地教授:ホタルの光は実は生命科学の実験でよく使われるものです。私が以前に所属していた大学の別の研究室で、「脳の機能に重要な分子の生成が生きたマウスの脳内でどのように変化するのか?」をホタルの光を利用して解析する実験を行っていたところがありました。
その先生方と研究の話をする機会があり、その中で「BDNFが脳内で増加した際、増加した部分が光るようなマウス」を作ろうという話になり、ホタルの光を利用した研究が始まりました。
TLG GROUP編集部:マウスの脳が光る実験というのは、非常に興味深いですね。
福地教授:マウスを使うと、遺伝子を組み換えたり、いじったりすることができますので、このような実験を行うことが可能です。
ただ、ホタルの光は実際に目で見えますが、自然界のホタルの光に比べるとかなり弱いので、マウスの脳を見る際には特殊なカメラを使わないと検出できません。
TLG GROUP編集部:そうなんですね。とはいえ、生きたまま光るということは驚きですね。
福地教授:そうですよね。実際に、こちらの図をご覧ください。
この図はホタルの発光原理を示しています。ホタルの光は、黄緑色の光だと思いますが、実際には酵素と基質の組み合わせによって光る仕組みです。この2つが組み合わさらないと光りません。
図の下に化学式がありますが、赤で書かれているルシフェラーゼというのが酵素です。これが基質であるルシフェリンという化合物と結びつくことでホタルの光が発生する仕組みです。この原理を応用して、ルシフェラーゼが生成されるマウス「BDNF-Lucマウス」を作成しました。
このマウスは、ただルシフェラーゼが作られるわけではなく、遺伝子を操作することによってBDNFの生成に伴ってルシフェラーゼも生成されるようにしてあります。例えば、このマウスに特定の薬物を与えたり刺激を与えたりすることでBDNFが増加すると、ルシフェラーゼも同じように増加します。
TLG GROUP編集部:とても興味深い研究ですね。
福地教授:ただし、先ほどの図に示した通り、酵素だけではマウスは光りません。そのため、マウスに基質であるルシフェリンを注射してあげる必要があります。投与したルシフェリンが全身を循環してルシフェラーゼと反応することで発光します。発光が強い、ということはその場所ではルシフェラーゼも多い、ということになります。
繰り返しになりますが、ルシフェラーゼの増加はBDNFの増加を示します。つまり、ホタルの光が強くなれば、ルシフェラーゼが増加したことを意味し、それはBDNFの増加を意味します。
福地教授:写真をご覧ください。
これはマウスの頭の部分の写真です。グレースケールの写真なので分かりにくいかもしれませんがこの写真はマウスを上から観察しているもので、よく見ると目や耳などが確認できると思います。また、この実験で使っているマウスは、毛の色が黒なのですが、黒い毛は光を妨げてしまうので実験の前に頭部を除毛しておきます。
BDNFは脳で大量に産生されているので、「ルシフェラーゼも大量に産生され、光も強くみられるのでは?」と思うかもしれませんが、先ほど述べた通り、ホタルの光に比べると光はかなり弱いので、撮影しても光はぼんやりとしか映りません。そのため、このような実験では、光の強さを疑似カラーで表すのが一般的です。
青く表示されている部分は光が弱く、赤みを帯びるほど光が強い、ということを示していますが、この写真では脳の位置する部分がよく光っていることがわかると思います。脳の部分は強く光っていますが、周囲の部位は光量が少ない状態です。
さらに、赤い部分、つまり光が強い部分を見ると、カタカナのハの字のような形状が浮かび上がります。これは脳内での記憶の中心として知られる部位「海馬」であり、発光が強く現れています。実はこのマウスには、海馬でBDNFを多く産生させるような化合物をあらかじめ投与しているのでこのような結果が得られています。
これにより、このBDNF-Lucマウスを使うことで、BDNFがどこでどの程度増加したのかを評価することができるのです。ただ、実際には自然界のホタルのルシフェリンやルシフェラーゼをそのままマウスに応用しても、脳はあまり光りません。そのため、脳からの発光をうまく検出できるように、他大学の先生方と共同研究を進めながら技術開発も進めてきました。
また、マウスは動き回るため、撮影時には麻酔を施しています。麻酔が切れれば再び活動を始めるため、発光を撮影するときにマウスに麻酔をかけ、実験が終われば麻酔から回復させ、再び飼育することができます。ですので、同じマウスを使って繰り返し実験することが可能です。
TLG GROUP編集部:生きたままの状態を観察するためには、麻酔の管理が欠かせないのですね。実際に、マウスがこの状態になるまでどのくらいの時間がかかるのでしょうか。
福地教授:発光を撮影するときには、まずイソフルランという吸入麻酔薬を使用します。濃度をコントロールして気化させたイソフルランが充満した専用の箱にマウスを入れると、数分のうちにマウスの動きは鈍くなり、動かなくなります。
この状態でマウスに基質を投与した後、麻酔をかけたまま発光を撮影できる専用の装置にセットして撮影します。マウスに基質を投与すると、だいたい5〜10分くらいで発光を撮影することができます。なお、撮影が終わったら吸入麻酔から外すことで麻酔薬が速やかに抜けていくので、数分以内にマウスは覚醒します。
ただし、撮影で使用するカメラは通常のものとは異なります。私たちが使用するカメラは「カシャッ」と一瞬で写真が撮れますが、マウスから得られる発光は暗いので、露光時間を1分程度にする必要があります。つまり、シャッターを開きっぱなしにして撮影し続ける感じです。こうすることで、生きたままのマウスからホタルの光を観察できるわけです。
TLG GROUP編集部:ありがとうございます。映像が鮮明で驚きました。
次に、こちらの実験から得られた研究成果についてお聞きしてもよろしいでしょうか。
福地教授:このマウスを利用することで、BDNFが増加するような刺激を与えた場合の脳内のBDNF増加の様子を生きたマウスで観察できることが明らかになりました。
この方法を応用すると、例えば、神経疾患の治療に有用な薬の候補が得られた場合、その薬をマウスに投与して脳内のBDNFの生成量が変化するのかを解析することができるかもしれません。
先ほども述べましたが、うつ病やアルツハイマー病などの疾患ではBDNFの量が低下していることが報告されていることから、脳内のBDNFを増加させるような薬は、これらの疾患の治療薬の候補になることが期待できるわけです。
TLG GROUP編集部:なるほど、この研究から得られる情報が、将来的に神経疾患治療に新たな展望を開く可能性があるということですね。BDNFと神経精神疾患との関連性についても、今は具体的には分かっている状態でしょうか。
福地教授:現在、うつ病やアルツハイマー病の認知症など、脳内のBDNFが減少しているという報告があります。ただ、その減少の原因はまだ詳しくは解明されていません。
「脳内のBDNFが減少することで脳の機能性が低下して病気になるのか?」「もしそうなら、なぜBDNFの減少が起こってしまうのか?」「もしくは、病気になることで脳の機能性が落ちてBDNFが結果的に下がってしまうのではないか?」など、その辺の関係性については未だ明確ではありません。
今後の研究でその関連性や原因について探求していく必要があります。このような研究を進める上で、私たちが使用しているマウスは大活躍するのではないかと期待しています。
TLG GROUP編集部:ありがとうございます。最後に、今後の研究に対する展望についてお伺いできますか。
福地教授:現在、生きたマウスを用いて脳内のBDNFの増減を解析するための方法を確立することができました。しかし、方法の確立だけではなく、治療への応用も考えていきたいと考えています。
特に注目しているのは認知症です。高齢化社会において、加齢に伴う認知機能の衰えは避けられないものとなっています。その衰えが疾患に至ることもあれば、衰えが緩やかで疾患に至らない場合もあります。脳内のBDNFを増やすことで、加齢に伴う認知機能の衰えや認知症の発症を遅らせることができるかもしれません。
今後は私たちのマウスを活用しながら薬の開発だけでなく、例えば、食品や天然物による健康な脳作りも考えていきたいと思っています。
TLG GROUP編集部:食品や天然物は健康な脳作りに有効なのですね。
福地教授:はい、そう期待しています。食品や天然物による認知症予防は可能であると思っています。
例えば、漢方薬に使われる生薬の中には、例えば韓国料理で使用される高麗人参や、日本でも料理に使用される山椒など、食用として使用されるものがあります。その他にも、私たちは日常生活で植物や天然物などを食品として使用していることは多いと思うのです。
もし、これらの食品が脳のBDNFの低下を防ぐ効果があることが確認されれば、食事を通じて健康な脳を育てることが可能かもしれません。私の期待、もしかすると妄想に近いものになってしまうかもしれませんが、今後の研究で実現性を検討していきたいと考えています。
このような取り組みを進める上で研究者として大事なのは、科学的なエビデンスに基づいたプロダクトを生み出すことだと思っています。これまでずっと研究の対象としてきたBDNFが科学的なエビデンスになると期待していますし、今後はその点をしっかりと研究して立証していきたいと思っています。
TLG GROUP編集部:ありがとうございます。食を通じた健康な脳作りに期待が高まりますね。
まとめ
TLG GROUP編集部:本日はお時間いただき、ありがとうございました。福地教授にインタビューして、下記のことが分かりました。
- BDNFは脳に多く存在するタンパク質である、神経細胞の生存や情報ネットワークの形成に重要である。
- BDNFは主に神経細胞で生成され、外部からの情報でその生成は活性化される。
- 現時点ではBDNFの量と疾患の関係は明確ではないが、BDNFは記憶や学習にも関与するため、BDNFの低下がうつ病やアルツハイマー病などと関連する可能性がある。
- ホタルの光を利用して、BDNFの増加とルシフェラーゼの増加が連動するマウスを作成し、生きたマウスの脳内でのBDNF生成の変化がホタルの光で解析可能となった。
- BDNFと神経疾患との関連性について、その因果関係や原因については未解明であるが、認知症などの神経疾患治療において新たな展望が開かれる可能性がある。
- 今後の研究では、生きたマウスを用いたBDNFの脳内での増減の解析や薬の開発に加え、食品や天然物による健康な脳作りも課題とされている。
BDNFは脳内で重要な役割を果たすタンパク質であり、神経細胞の生存や学習・記憶に関与しています。
福地教授の実験では、ホタルの光の仕組みを利用して、生きたマウスの脳内のBDNFの増減を解析できる方法が確立され、この方法を駆使することにより神経疾患治療や認知症予防に新たな展望が開かれる可能性が示唆されました。
さらに、脳内のBDNFの低下を防ぎ維持する食品や天然物による健康な脳作りも、新たなアプローチとして期待されます。この研究成果は、将来的には脳の健康維持や神経疾患の治療に大きな影響を与えるかもしれません。
取材・文:TLG GROUP編集部
記事公開日:2024年4月27日