脳は私たちの体と心をコントロールする司令塔であり、その機能は複雑で驚くべきものです。日常生活の中で、私たちは無意識に脳を使い、思考、感情、動作を調整しています。
現時点では、脳がどのようにこれらの機能を実現しているのかまだ完全には解明されていません。しかし、効果的な治療法の開発や、健康な脳機能の維持に役立つ新しい知識が得られつつあります。
この記事では、千葉工業大学の信川創教授に脳機能に関する基本的な情報やその課題、今後の治療法について独自インタビューさせていただきました。
千葉工業大学 情報変革科学部 情報工学科
信川創(のぶかわ そう)教授
兵庫県立大学応用情報科学博士課程修了後、博士(応用情報科学)となる。
所属学会はIEEE・International Neural Network Society・システム制御情報学会・計測自動制御学会・電子情報通信学会の全5つ。
論文として、2024年に「Impact of time-history terms on reservoir dynamics and prediction accuracy in echo state networks」「Alterations in the hub structure of whole‐brain functional networks in patients with drug‐naïve schizophrenia: Insights from electroencephalography‐based research」などを発表。
研究分野・背景について
TLG GROUP編集部:早速ですが、計算論的神経科学とはどのような分野なのかについて教えていただけますでしょうか。
信川教授:まず、計算論的神経科学とは何かというと、脳の構造や神経活動を通じて、脳の情報処理や認知機能がどのように実現されているのか、そのメカニズムを明らかにする学問です。
脳がどのように機能しているかを理解するためのモデルを使い、脳の機能を説明することが主な目的となっております。
TLG GROUP編集部:なるほど。詳しく理解したいので、例を挙げて説明していただけますか?
信川教授:はい。例えば、昔は脳の特定の領域が独立してそれぞれの機能を持っていると考えられていました。しかし、研究が進むにつれて、そうした見方は変わっていったのです。
具体的には言語を処理する際、情報がまず感覚から取り込まれ、それが脳の異なる領域に送られていく過程を通じて、言語という機能が実現されます。
TLG GROUP編集部:言語として認識されるにはその前の過程が重要なのですね。
信川教授:さらに最近の研究では、脳機能が単なる固定された構造に基づくのではなく、認知過程に応じて動的に変化する相互作用によって実現されることが分かってきました。
つまり、脳のある領域が特定の機能を独立して担っているのではなく、様々な状態や側面で異なる領域が活性化し、情報をやり取りしながら機能を実現しているのです。この動的な相互作用が脳の認知機能を支えています。
TLG GROUP編集部:計算論的神経科学とは、脳の構造と神経活動を通じて、脳の情報処理や認知機能のメカニズムを解明する学問なのですね。
脳の状態を調査するためにどのような手法が用いられるのでしょうか?
信川教授: 局所領域を捉える手法としては、パワー解析があります。また、単純に特定の領域同士が繋がっている、相互作用しているといった性質を調べる方法としては、機能的結合解析が使われることが一般的です。
しかし、脳の動的な状態を瞬間的に捉える必要がある場合は、複雑性解析や動的機能的結合解析、マイクロステート解析といった手法が用いられます。
TLG GROUP編集部:脳の状態を把握する手法は1つではないことが分かりました。初期からこの研究に携わっていたのですか?
信川教授:私は最初から科学実験データを扱う研究をしていたわけではなく、数理モデルを用いて動的な神経ネットワークの状態の変遷を表現する研究を行っていました。
数理モデルを使ったダイナミクスの研究が、このような解析手法と非常に相性が良く、実験データに数理モデルを適用する形で研究を始めたのです。そのため、数理モデルに基づいた解析を行うことが自然な流れとなりました。
TLG GROUP編集部:なるほど、先生のバックグラウンドが計算論的神経科学にどのように役立っているかがよく分かりました。
数理モデリングとデータ駆動型分析
TLG GROUP編集部:続いて、ニューロイメージング研究で用いられる数理モデリング分析やデータ駆動的分析の手法について具体的に説明をお願いいたします。
信川教授:ニューロイメージングについて、まず基本的なことからお話ししますね。ニューロイメージングは脳の活動を可視化する手法です。
これは、脳のどの部分がどのように活動しているかを捉えることができます。周波数の分解により、神経活動の速度や深さを測定することが可能です。
例えば、ファンクショナルMRI(fMRI)は強力な磁場を使用して脳の血流を測定し、神経活動を推定します。fMRIは脳の深部から表面まで網羅しますが、非常にゆっくりした動きしか捉えられません。
一方、脳波(EEG)や脳磁図(MEG)は脳の表面の活動を測定するものの、100Hzくらいまでの高速な神経活動を捉えることができます。
TLG GROUP編集部:具体的にはどのように使い分けるのですか?
信川教授:研究の目的や測定したい脳活動の種類によって手法を使い分けます。fMRIは空間分解能が高いので、脳のどの部分が活動しているかを詳細に見ることができます。しかし、時間分解能が低いため、瞬間的な神経活動は捉えにくいです。
TLG GROUP編集部:なるほど。それでEEGやMEGを使うのですね。
信川教授:その通りです。EEGやMEGは時間分解能が高く、非常に速い神経活動を捉えることができ、アルファ波やベータ波といった脳波の種類を詳細に解析することも可能です。
しかし、空間分解能はfMRIほど高くないので、どの部分が活動しているかを詳細に特定するのは難しいと考えられています。
最近、私たちが注目しているのは瞳孔の動きです。瞳孔の動きは、実はfMRIよりも10倍ほど速い信号を捉えることができ、脳の深部の情報も含んでいます。これにより、fMRIやEEG/MEGと組み合わせて、より詳細な脳活動の解析が期待されるでしょう。
TLG GROUP編集部:瞳孔の動きですか。それは興味深いですね。
信川教授:ニューロイメージングでは、見たい脳活動の量や時間、周波数の領域に応じて、これらの手法を適宜使い分けています。
私たちの研究では特に、EEGとMEGの領域に注目しています。これらは時間分解能と周波数分解能が高く、シータ波、アルファ波、ベータ波、ガンマ波など、様々な波を捉えることが可能です。
これらの手法を組み合わせることで、より包括的な脳活動の理解が進むことを期待しています。
TLG GROUP編集部:信川様の研究では、スパイキングニューラルネットワークモデルも活用しているということを伺いましたが、実際にどのような使い方をされているのでしょうか?
信川教授:はい。スパイキングニューラルネットワークモデルに関してですが、私たちが研究しているのは、脳の活動レベルがどういった神経ネットワークの構造から生まれているのかを明らかにすることです。
具体的には、脳の様々な構造をスパイキングニューラルネットワークモデルで構築し、その構造からどのような活動が生まれるのかを調べることが主な目的となります。
TLG GROUP編集部:なるほど。どのような手法を使ってその構造を明らかにしているのですか?
信川教授:私たちは、分岐解析や推理的な指標を用いて、脳の構造からどのような活動が生じるのかを推理しています。このために、ミクロレベルやマクロレベルの構造をスパイキングニューラルネットワークモデルで構築し、そのモデルから生まれる活動を詳しく調べているのです。
TLG GROUP編集部:その研究は病気の解明にも役立つのでしょうか?
信川教授:はい、そうです。例えば、アルツハイマー病のように神経ネットワークが切れると、活動レベルで変化が見られます。
しかし、活動の変化が機能レベルでどう影響するのかを調べることも重要です。そこで私たちは、リザーバーコンピューティングという人工知能の手法を用いて、神経ネットワークの機能を評価しています。
TLG GROUP編集部:リザーバーコンピューティングとは具体的にどのようなものですか?
信川教授:リザーバーコンピューティングは、複雑なダイナミクスを持つネットワークを利用して、その学習を行う人工知能の一種です。私たちはスパイキングニューラルネットワークで構築した神経ネットワークの機能を評価する手法として利用しています。
この手法を神経科学のモデルに当てはめて、病気によってどのように機能が変わるのかを解析しています。
ニューロイメージング技術と医療への応用
TLG GROUP編集部:ニューロンイメージング技術の進化が医療診断や治療にどのような影響を与えているか、特に効果的な疾患や新たな治療法について教えていただきたいです。
信川教授:前提として、ニューロンイメージングにはそれぞれ得意な範囲があります。つまり、単独のニューロンイメージングでは実効性が限定されるので、今後は複数の手段による診断が重要になってくると思います。
TLG GROUP編集部:複数の手段による診断ですか。それは具体的にはどういうことでしょうか?
信川教授:私たちも診断をサポートするための特許や指標をいくつか提案してきましたが、その中でも推奨しているのが、それぞれのニューロンイメージングの得意なところを補い合ったマルチモーダルな計測結果に基づくバイオマーカーです。
バイオマーカーとは、定量的な計測結果から特徴を取り出し、その特徴に基づいて診断を支援する指標のことです。
TLG GROUP編集部:なるほど、各技術の得意分野を活かして総合的に診断するということですね。
信川教授:そうです。ニューロンイメージングの話に加えて、最近流行している「デジタルツイン」という言葉をご存知ですか?
TLG GROUP編集部:はい、聞いたことはあります。現実の状況を仮想空間に再現する技術ですね。
信川教授:その通りです。デジタルツインとは、現実の状況を仮想空間に再現し、同時に2つの存在を持つような状態を作ることです。
デジタルツインを活用すれば、仮想空間で様々なシミュレーションを行い、治療効果や病状の進行を予測することができます。現実で治療を行う前に仮想空間で試すことで、治療効果を予測したり、薬の効果を臨床実験前に確認したりすることも可能です。
TLG GROUP編集部:デジタルツインによって、より効率的に治療することが可能になるのですね。
信川教授:そうですね。このようなモデリングは、今後デジタルツインとしての利用が進んでいくと思います。
仮想空間でのシミュレーションにより、治療効果や薬理効果を臨床実験の前に予測することができるのです。
まとめ
TLG GROUP編集部:本日はお時間をいただき、ありがとうございました。信川教授にインタビューして、下記のことが分かりました。
- 計算論的神経科学は脳の情報処理や認知機能のメカニズムを明らかにする学問で、特に脳の構造と神経活動をモデル化して研究している
- 数理モデルを使った研究から計算論的神経科学に移行し、精神疾患のメカニズムを解析する研究を進めている
- ニューロイメージング技術は複数の手法を組み合わせたマルチモーダル診断が重要
- デジタルツイン技術により、今後仮想空間で治療効果や病状進行のシミュレーションが可能
- 信川教授の研究では、デジタルツインと数理モデルを活用して、病気の進行メカニズムをより詳細に理解し、新しい治療法の開発に繋がることが期待されている
信川教授の研究は、脳の活動を詳しく調べて精神疾患の仕組みを解明することを目指しています。ニューロイメージング技術を使って脳の活動を可視化し、いくつかの方法を組み合わせたより正確な診断が可能です。
さらに、デジタルツイン技術を利用して仮想空間で治療の効果や病状の進行をシミュレーションすることで、新しい治療法の開発が期待されています。
この研究により、病気の進行を詳しく理解し、新しい治療法の開発に大きく貢献できると考えられています。将来的には、より効果的な治療法が開発され、脳機能の理解が深まるでしょう。
取材・文:TLG GROUP編集部
記事公開日:2024年6月16日